百歳を迎えて

木下歯科医院 院長 木下 亨
   私ごとですが、父 木下諒三が6月1日発行の「日歯広報第1791号」に取り上げられました。父はここにあるように大正11年生まれです。

 
 明治維新という大変革をなして、江戸時代にピリオドを打ち西洋近代化へと大きく舵を取り、日清・日露の戦争に勝ち、アジアの大国として世界にデビューをしました。 大正時代というのは、この後の太平洋戦争に突入する昭和という時代との間にあって、少し凪いだ一時であったような気がします。
 
 この年、明治維新の立役者の一人で元勲として名を馳せた、国民には人気のなかった山縣有朋が亡くなり、また関東大震災、世界恐慌と続き、暗い時代へと突入する分岐点となった年ではないかと思います。因みに日本共産党結党、ソビエト連邦が誕生したのもこの年でした。

 

 いろいろな方からお祝いの言葉をいただきながら、父が百歳を迎えたことを歓んでおりますが、永らく父親の介護に携わって、実は長生きは必ずしも本人にとって幸せなことではないなと感じています。
 
 思うように体は動かず、長く連れ添った妻、親しかった友とも別れ孤独な毎日の連続でした。そこにコロナで私もなかなか会いには行けず、思考や感情、意識を司る機能が低下していることがせめてもの幸いだったかと思います。
健康で、長生きとはあくまでも「理想」という実態のないものであって、現実的だとは言い難いというのが正直なところです。
 
 ただ私の父の場合は、「鰻」が食べたい、「ステーキ」、「天せいろ」が食べたいという食欲がありましたので。それが唯一の楽しみとなって、無味乾燥な毎日でも希望、生きがいとなったのではないかと思います。
 
 一方で母親は父の8歳下ですが83歳でこの世を去りました。こちらは自力では食事ができず、胃瘻も不可能であったため鼻から栄養をとっておりましたが、ただただ生きている(死んではいない)というだけで、毎日が辛そうでした。
 
 その母も最期は家族にも言葉も発することができず、バイタルのサインを機械で観ての死亡となりました。死を迎えて却って、安らかな表情となり、本人のみならず見送った家族も安堵したのを覚えています。
 
 経済的にも豊かで、戦争もなく、医学も大進歩した日本で超高齢化が進むのは当然の帰結のように思います。私も64歳を迎え、世の中ではいわゆる定年の年、老後の入り口に立ちました。改めて父親の歳を思う時、そう簡単に祝う気持ちにはなれません。
 
 齢を重ねて体の機能が低下して自分でできなくなることが多くなるのは当たり前ですが、食欲があって食べたいものがある、また家族や親しい人と少しでも話を楽しむことができれば、前向きに生きていけそうな気がすると、父親を見ていて感じました。また、死は本人にとってよりも残されたものへのダメージが大きい反面、百歳を超えて長生きするということは、他ならぬ本人にとっては非常にタフで辛い事ではないのかと百歳を迎えた父を寿ぎながらぼんやりと考えておりました。

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